長崎


inフェリー 甲板から外を見る
長崎スイッチの入った(この言い回しは九州の中でしか理解されないか?)父と、フェリーに乗って島原から諫早長崎市内へ日帰り観光。早起きせねばならない(と言っても七時)のに寝たのは三時過ぎ。本当に最近全く寝れない。起きたのは六時半だった。とても冷える。

inグラバー園 グラバー邸の二階から下を見下ろして…そして長崎のドッグを見て
人生二度目グラバー園をお気に入りの緑のチェックのパンプスでコツコツ歩いて、石畳に足を取られながら、存分に爽やかな秋の日差しを堪能する。古い時代の洋風建築に、当時の異国情緒を感じ取って、それでも異国をどこか卑しんでいたという長崎の人々に対する著述を思い出して、暗い面を思ってしまう*1。勿論、そういうものばかりではなかった筈だが、そういう風潮があったのも事実だろう。文化が絢爛だったからといって人々を受け入れたということまでは言えない。悲しいことに。
お昼過ぎて長崎水辺の森公園や長崎県立美術館に向かう。美術館にはスペイン関連の所蔵品が多いらしくそれを期待して。



余りにも衝撃的過ぎたのは、言うまでもなくパブロ・ピカソだった。そして、サルバトール・ダリ、最後にどどんと『赤と灰色』の人(名前忘れたわ…)。
ピカソは。ピカソは、壮絶なまでの孤独、自嘲に充ち満ちた苦しみがあるようで、ただ『静物』をみただけなのに、それらを感じてしまって動けなくなって怖くなって苦しくなってしまった。様々な視点を一つの絵に載せたということは、見ている者に最大の刺激を与えるけれど、どうしてだろう、奥底にピカソのその視点の多様さに起因する孤独が見えて、しまって、または受容されない忸怩たる感情が見えてしまって、勿論これはただの推測であり、実際はそうかどうかは知らないが、とても怖かった。飲み込まれる。飲み込まれる。逃げ出さなければ。
ダリのシュールレアリスムにもピカソで壊された平然が更に掻き混ぜられるようで、逃げ出したいと思ったけれど目は離れなかった。題は忘れたが、圧倒的な筆緻のもとに崩される規制概念と神話。戦慄。二文字に尽きる。
胸がいっぱいでこれ以上は何も受け入れることができないと思って、緩やかにそれでも舐めるようにみて、常設展を出る。怖いねピカソ怖い。グレイソン・ペリーを金沢でみた時も衝撃だったけれど、今回も。やられたわ。まだ胸が痛い。
友だちへのお土産購入目的にミュージアムショップへ行けば、発見。運命だ、私の大切な宝物、須賀敦子。特集の組まれた『芸術新潮』十月号を遅ればせながらまるで憑かれたように手に取った。死ぬかと思った。この特集では、須賀敦子の触れたイタリア各地を松山巖氏(須賀敦子と生前親しかった方)とともに巡り、編集者が記事のタイトルと須賀敦子のフレーズを添えた写真を紹介し、同行した松山氏が今はいない須賀敦子へ向けて手紙を綴った内容となっており、二部構成の形を取っている。写真とエピソードを読めば、読んだ時に感じた、彼女の言葉にならない感情を思い出して、とても大変だった。大変だった。私は彼女に言葉を掛けられない。手向ける言葉がない。見付けられない。知らない。松山氏のように手紙に認めることもできない。
まだ感情的になりすぎて全然駄目だ。須賀敦子さんの旦那さん・ペッピーノが亡くなった時、敦子さんがほうけてしまっている中、声をあげて『ペッピーノ』と泣きじゃくる神父を思い出して、その姿をみて彼女がこの世に帰ってきたことを思って、何度も繰り返し思い出して悲しくて辛くなる。
そんな長崎の旅だった。

*1:確かローカル番組で司馬遼太郎の『街道をゆく』?かなんか朗読しながら九州各地を案内するというものだったはず